十一代将軍の家斉の時代



十代将軍家治は子供もおらず、政務を田沼意次にまかせっぱなしとなっていました

その家治がとうとう死去

こうして家治の養子となっていた家斉が15歳で新将軍に

将軍就任後、家斉は幕政を牛耳っていたボス田沼意次をクビにし、代わって松平定信をトップ老中としました

松平定信は、田沼政治によって腐敗しまくった江戸をどうにかしようと「寛政の改革」をすすめることになるのです

定信は田沼全盛期の頃「田沼を見るたび殺したくなった」というほど意次が嫌いでした

そんな定信でも田沼に賄賂を届けたことがあるのです。

というのも定信には冠位がなく、吉宗の孫であるから江戸城に登城した時に、ある程度の冠位がないとバカにされる!というので、意次にお願いするしかなかったのです。
この頃将軍にお願いできるのは意次くらいしかいなかったから。

将軍の孫でありながら、足軽出身の田沼に賄賂を贈って頭を下げてまで冠位を貰わねばならない屈辱

定信は田沼を見るたび殺したくなるほどだったのです

こうして有名な松平定信の寛政の改革がスタートとなりますが、取締りの厳しさに幕府内からもブーイングが出るようになってきました

さらに「大御所事件」という事件が発生。
それは将軍家斉が、父である徳川治斉を江戸城へ入れて「大御所」と呼び、前将軍の同様の待遇を与えたいというもの
これに定信が大反対したのです。

また「尊号事件」といい、この時の天皇が実父に「太政天皇」の称号を送りたいって言ったんだけど、定信がこれを却下したのです。

そのため「定信め!エラソーにしやがって!」と批判が出始め、とつとう失脚

田沼意次から引き継いでからわずか6年でした。

定信に代わってトップ老中となったのは水野忠成
そして寛政の改革の遺老達は次々と退けられ、国政はまったく違うものとなっていくのです

家斉は異常なほど女好きでした。

手をつけた側妾は40人に及び、男28人 女27人と合わせて55人の子供を産んだのです。

これは歴代将軍NO1の記録で、こんなにたくさんの子供を育てるお金が幕府にななく、子供達は外様大名のところへ養子に下げ渡されたりしました。というか、押し付けた。

外様大名は大迷惑。
自分の息子がいるのに、将軍家から息子がきちゃったらそっちを大事にしなきゃなんないし・・・。

将軍家からお嫁さんが来た場合は、それなりの格式を整えなければならなかった。

さらに家斉は贅沢大好き。
率先して遊んでばっかいたので、おのずと世間もだらけた風に染まっていくのです。

松平定信の寛政の改革が終わると同時に、世の中は乱れ、腐敗していきました

新たに老中となった水野忠成は家斉の絶大な信頼を得て、権力をふるいまくりました。

寛政の改革では「賄賂は禁止」とされていたんだけど、自分が老中になったら欲しくなっちゃって公然と賄賂OKとしました。

それどころか推奨までしちゃったので幕府の風紀は緩みまくり、政治は腐敗の一途をたどるのです。

寛政の改革の苦労は全て水の泡となり、幕府はまた財政難となっていくのでした



御台所・茂子

茂子は右大臣家の娘となっているが、実際は薩摩藩主島津家の娘

家斉とは同い年

14歳の時に結婚するはずでしたが、14歳の御台所では大奥内でナメられるということで17歳の時に結婚

が、家斉は歴代将軍NO1と言われる女好きだったため、あまり幸せな結婚生活はできなかった

茂子は第七子を出産するも、その子は4歳で死去

茂子は寂しく72歳まで生きた

お満の方

家斉の初めての子を産んだのがこの女性

長女淑姫を出産

ちなみにこの時、家斉はまだ15歳

お満は家臣の娘で、大奥で奉公している時にお手つきとなった

長女・次女を生むも二人とも死んでしまい、三人目で長男竹千代を出産

が、翌日に死んでしまう

さらにまた姫を出産するが、これまた3歳で死去

産んだ子全員が死んでしまうという不幸な女性であった

家斉が15歳の頃から寵愛を受け続けたが、30歳になり「お褥辞退」(おしとねじたい・30歳になったら夜のお相手をやめること)となってからは記録にない

お楽の方

12代将軍となる家慶を出産した女性

そのため大奥内では権力NO1を持つ

権力を持ち続けたまま45歳で死去
お宇多の方

大奥にあがるとすぐに家斉の寵愛を受けた

家斉の第六子である敬之助を出産するも3歳で死去

さらに3人子供を出産するが全員死亡

10年ほど寵愛をうけたが、30歳になりお褥辞退となった

寵愛NO1 お美代の方

お美代の方は祈祷僧日哲の娘で、江戸大奥へ奉公に上がった時に家斉に気に入られお手つきに

かなりの美貌の持ち主で、さらに頭もよかったため晩年の家斉の寵愛を一身に受けた

溶姫・仲姫・末姫と三女を出産し、溶姫は加賀前田家へ、末姫を広島浅野家へ嫁がせました

そして家斉の寵愛を受けまくっていたため大奥でも絶大な権力を持つのです

父の日哲も怪しげな祈祷僧だったのですが、立派な寺を建ててもらい「将軍お声ががりのある祈祷寺」として、御三家や御三卿、諸大名までもが参詣するほど

そしてこの寺では大奥女中と寺僧のラブホがわりとなっていき、お美代の方とその一族は栄華を誇っていくのでした

家斉が隠居し「大御所」となって権力を握り続けていたものの、十二代将軍家慶は常日頃から大奥の乱れが気に入らなくって老中の水野忠邦に大奥腐敗の原因を調べさせました

すると日哲の寺が大奥の風紀を乱しているということになったのです

お美代は焦り、家斉にすがろうとしたんだけど、運悪く家斉が病気になってしまいそのまま死んでしまったのです

困ったお美代は「わが娘・溶姫が前田家に嫁いで産んだ犬千代を、将軍家定の養子とし14代将軍にさせる!」という策に出たのです

家慶は29人の子供がいたけど残ってるのは男児2人のみ。
後継ぎは四男の家定だけど、知的障害者っぽいので将軍職に耐えられるかどうか疑問だった

そうした状況の中、家斉が犬千代を次期将軍に指名さえすれば、お美代は将軍の母としていつまでも権力を握れる!そう思ったのです

コトをうまく運ぶには家斉のお墨付きが必要となる

お美代は家斉の家臣であった美濃部茂家育(みのべしげなる)に命令し遺言状を偽造したのです。

そしてお美代は「恐れながら死んだ大御所様が、いまわの際に私にこれをくださいました」と、その遺言状を提出。

そこには「元将軍家慶の世子家定を13代将軍とする。同時に前田犬千代を家定の養子とし、将来14代将軍とする」と書いてありました

これを見た広大院(こうだいいん・家斉の正室・茂子)は激怒!

ただでさえ家斉は正室であった自分を差し置き、お美代の方ばっか寵愛してたのが気に入らないっつーのに、なんで家斉には他の子供がまだいるのに、その子供を飛び越えて前田犬千代を指名しなきゃなんないの?

ということで、将軍家慶に「お美代の方に陰謀の匂いあり!」ってことでこのお墨付きを提出しちゃったのです

こうしてお美代の方の陰謀は発覚し、一族や陰謀に関わったものは江戸城から姿を消しました

これが有名な「お美代の方違勅事件」です

お美代の方は、娘・溶姫の願い出によって前田家へ

ちなみにこの「溶姫」もすっごいぶっ飛んだわがままお姫様で有名

そしてお美代の方は権力抗争に敗北し、哀れな晩年を過ごしたのです

おみのの方

大奥内においてイジメにあった女性です

もともとお次だったのが、お手つきとなり妊娠

御中臈へと出世したもんだから、他の御中臈たちの嫉妬の的になった

ある日おみのが歩いていると、2人の女性が無理やり庭に連れ出し、石へ突き飛ばしたのです

こうしておみのは流産

2人の女性を恨みながら自害してしまったのです

ちなみに家斉はおみのを気に入っていたので、おみのの弟を小姓に取り立てたそうです

その他の側室
家斉は全部で53人の子を持ち、側室も40人〜50人いたといわれています

その中で子供を生んだのは16人

お志賀の方・お利尾の方・お屋知の方・お八百の方・・・・まだまだたくさんいます

その中でもすごいのが

お登勢の方・・・・5年間で5人出産

お蝶の方・・・15年で7人出産

お袖の方・・・14年で8人

お八重の方・・・13年で8人

などなど、かなり多産タイプが多いです。すごいです・・・

ちなみに家斉の最後の子を産んだのはお瑠璃の方

16歳の時に、47歳の家斉の子を産みました